現代の日本では、性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われる。しかし本来は、楽観主義や悲観主義ではなく、どちらも「教育の重要性」を主張するための説だった。
孟子が唱えた性善説は、あらゆる人に「善の兆し」が先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、惻隠(憐れみの心)、羞悪(不正を恥じる心)、辞譲(謙譲の心)、是非(善悪を分別する心)であり、これを四端の心という。修練により四端は「仁・義・礼・智」という徳として具現化し、聖人・君子たることができる。それゆえ教育が重要である、という説だった。
一方荀子が唱えた性悪説は、「性」を欲望を含んだものとして捉え、自然そのままの人の本性は「悪」であるとした。欲望を保有する人間には自己を制御する力は無く、外在する「礼」すなわち学修によって人を矯正・感化する必要があるのだと説いた。それ故に教育が重要である、と。
さらに、礼ぐらいでは治まらないとしたのが韓非子などで、そこから「法による制御」刑罰主義へと向うのである。
性善説が正しいのか、性悪説が正しいのか、を問うわけではないが、いずれにしろ教育によって、あるいは修練によってその人格を磨くのは、人としての哲理である。
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高原 要次