「敬天愛人」

 旧庄内藩の藩主であった酒井忠篤とその家臣たちによって編纂・発行された『西郷南洲翁遺訓』という本がある。なぜ、薩摩から遠く離れた奥羽庄内藩の殿様と家臣が、このような書物を編纂したのであろうか。事の経緯は、以下の通り。
 幕末、徳川幕府から江戸市中見回りの命を受けていた庄内藩は慶応三(1867)年、「テロの巣窟」である薩摩藩邸を焼き討ちにする。この件で薩摩藩では浪士を入れて64名が命を落とした。
 明治元(1868)年、戊辰戦争で幕府方の庄内藩は薩摩藩を中心とした新政府軍を迎え撃ち、善戦の末降伏した。焼き討ちの遺恨により庄内藩主と重臣たちは切腹を覚悟した。しかし、参謀の黒田清隆は庄内藩主に礼儀を尽くし、家臣たちにも寛大な処遇をした。後に、この処遇は西郷隆盛の指示によるものであることが判明した。
 感激した藩主の酒井忠篤は西郷隆盛に親書を送り、明治三(1870)年には藩主以下70数名が鹿児島を訪れた。彼らは西郷から兵学を学び、幾度も西郷と接する機会を持った。そして折に触れ、西郷が語った言葉を帳面に書き写したり覚えたりした。この旧庄内藩士たちによる一連の聞き書きが、『西郷南洲翁遺訓』である。
  この『西郷南洲翁遺訓』は四十一条と追加の二条でできているが、その二十一条に「道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は“敬天愛人”を目的とし、身を修するに克己を持って終始せよ」とある。西郷は、この“敬天愛人”を座右の銘とし、自己修養のための指針として“天を敬い、その哲理に従い、自分を愛すると同様に他人を愛する”ように生きた。
 実業家の稲盛和夫は、「西郷南洲翁遺訓」にはリーダーのあるべき姿が語り尽くされていると語り、自身の人生、経営の指針として同書を紐解いていた。そして、自身が創業した京セラの社是を「敬天愛人」としている。
 「放勲欣明 文思安安」、「敬天愛人」、まさに西郷南洲である。

ラーニング・システムズ
高原コンサルティングオフィス                                                
 高原 要次