木村摂津守喜毅(よしたけ)は、幕末期の幕臣。目付、軍艦奉行等幕府の要職を歴任し、とくに幕府海軍の建設に尽力し、軍艦奉行となった人物である。
幕府は、元延元年(1860年)日米修好通商条約批准のため米国に使節を派遣するのだが、この時正使を乗せたポーハタン号とは別に、護衛する役目と乗組員の航海練習を目的として「咸臨丸」が派遣される。遣米使節副使として木村喜毅が咸臨丸の司令官となり、その下に艦長として勝海舟がおり、従者として福沢諭吉、通訳として中浜万次郎が乗船している。
木村喜毅は、この「咸臨丸」の航海に際して、航海の道案内と米国側との連絡のため、海軍大尉ジョン・ブルックを始めとする米国の軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた。また、乗組員たちの手当てを幕府に要求したが容れられず、自分の書画骨董を処分して3千両(約2億円)もの大金を咸臨丸に積み込み、全員に報奨金や服装・土産代に分配して残らず使い切った。
サンフランシスコに到着した木村善毅ら一行は市民の大歓迎を受けた。市長主催の歓迎会に出席した木村は、席上での乾杯の際に“今、日本の皇帝のために乾杯していただいたが、その名前がアメリカ大統領の前にあった。こんどは大統領の名前を先に、アメリカ大統領と日本の皇帝のために乾杯していただきたい“と言って、米国人を感嘆させた。サンフランシスコの市民は、木村喜毅とその一行の姿と所作に美しさと尊敬の念を抱いた。
地元紙は木村について以下のように評した。「彼は一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物で、四十前後と見受けられた。やがて彼は紳士的な服装で謙恭な態度で現れた」 (デイリー・アルタ・カリフォルニア紙)、 「頭上より足の指先に至るまで、貴人の相貌あり」 (ブレッディン紙)
「咸臨丸」から、163年が経った。世界の中で、「日本」が「日本人」が問われている。世界から尊敬される日本国でありたい、そして尊厳ある日本人でありたい。究極的には、その人の「立ち居振る舞い」であり、それはその人の精神性ではなかろうか・・・。
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