西郷南洲の本質を探る

 「西郷南洲(隆盛)」は、鹿児島県人は勿論、日本の多くの人々に人気がある。それは明治維新の偉業とは別に、人間西郷への敬愛に根差しているように思う。
 英雄とか英傑とか言われた人たちは、よく言行録を残しているが、西郷にはそれがない。そんなことをするよりも、自分自身がふだん言っていることや、生き方そのものが言行録だったのであろう。この人間西郷南洲は、どのようにして完成されたのであろうか。
 薩摩では、市中のみならず地方においても地域を幾つかに分けた地区(郷中)で、その地区に住む子供たちを幼年と少年に分け、少年が幼年を教育する制度が存在した。午前中は、四書五経等の学問を、午後は武術や体の鍛錬などを行った。この「郷中教育」で幼年・少年時代の西郷は鍛えられた。長じて西郷は大久保利通(一蔵)や青年たちと、朱子学の「近思録」や陽明学の「伝習録」を学び合い、それが行動となった「精忠組」のリーダーに押される。
 更に藩主島津斉彬に意見書を出すことによって認められ多大な影響を受ける。そして、江戸に随行し「庭方」として活動する中で、水戸の藤田東湖やそこに集う、橋本左内・佐久間象山・横井小楠・吉田松陰らと親交を結び、彼らに大きな刺激を受ける。
 しかし、斉彬が急死し、藩主の父島津久光に疎まれて奄美大島、徳之島・沖永良部に流された。この間、独居・慎独と「嚶鳴館遺草」(細井平洲)や「言志四録」(佐藤一斎)の書物から修己の質を高め、島の人々との交流のなかで自己の進化を遂げた。
 西郷の特徴は、自分を出し惜しみせず、全力でぶつかる誠実さである。自分の経験した痛みから、相手の痛みがわかり、優しさと人間愛に満ちていた。また、困難を引き受けつつ、いつ死んでもいいという姿勢を保っていた。これが相手の心を打ち、西郷贔屓にした。
 西郷自身が書き残したものではないが「西郷南洲遺訓」というものが存在する。これは、庄内藩士が西郷の口からでた言葉を綴ったものである。庄内藩は、戊辰戦争の時新政府に敵対したが、西郷のお陰で寛大な処分を受けた。西郷に恩を感じ感謝して、藩士の数十人が鹿児島に西郷を訪ね起居を共にし、西郷の言うことや行うことを聞き、西郷から学ぼうとした。その時記したものが「西郷南洲遺訓」として後年まとめられた。四十一あり、追加がいくつかある。その内容は、西郷が「論語」や「言志四録」はじめ書物から学び行動してきた中で凝縮された言葉であり、代表する言葉が「敬天愛人」である。「天」を敬い、道理を重んじ、「人」を愛する、ということであるが、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が含まれているように思う。

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