6月、友人2人と久し振りに長崎に1泊で出かけました。特急「かもめ」に乗るのも初めてです。車中でお喋りを楽しみ、市内で観光タクシーを利用する事にした私たちは、「祈りのコース」の案内を頼むことにしました。
長崎平和公園は中学校の修学旅行以来ですから、だいぶ前の記憶しかありません。この日も幾つかの修学旅行生が千羽鶴を「平和の像」に奉納していました。次に、医学博士である永井隆博士の生涯を知る記念館を訪れました。その隣には、亡くなるまでの3年を子供ふたりと過ごした2畳ひと間の家「如己堂」があります。とても小さいです。
永井隆博士は、助教授をつとめる長崎医科大学付属医院で被爆しました。自らも右側頭動脈切断の重傷を負いながら、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ人です。
彼は放射線医学の研究で被曝し、慢性骨髄性白血病と診断されました。その2ヶ月後に、被爆しています。婦人は自宅で即死だったそうです。それでも永井博士は救済活動(巡回活動)し、私財を投じて子どもたちのための図書館を作りました。病床で文筆活動した彼は、そのなかの「平和の塔」の中で、平和を保つためには現代の世界の人々に掛け値なしの真相を知らせる必要があるとして、長崎最後の日の情景を、ありのまま、少しも飾らず少しも削らず書き綴っているそうです。その後に、ヘレン・ケラー女史が見舞に訪れたり、床についたまま長崎医大で天皇陛下に拝謁したりしています。どんなにか人類愛にみちた人だったかがわかり、胸を打たれます。そして、43歳で亡くなる約1年半前の昭和24年12月26日に‘長崎市名誉市民’の称号を贈られています。
平和公園→永井隆記念館(如己堂)→浦上天主堂→原爆資料館→原爆落下中心地→1本柱鳥居→日本26聖人殉教地へと足を運んだ1日です。
ところで、「平和の像」の顔が、ごく僅か左のほうに向いているのをご存知でしょうか。垂直に高く挙げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味しているのはよく聞きますが、「平和の像」の顔は真正面を向いているのではありません。実は原爆落下中心地に目を向けているのだそうです。タクシーの運転手に像を見て気づく事はありませんかと聞かれた時、私は何故かそのことに気づきました。9割以上の人が気づかないそうです。
「如己愛人(にょこあいじん)~わがいとし子よ 汝の近きものを己の如く愛すべし~」永井氏の言葉ですが、やはり考えさせられます。今回の旅でまたひとり偉大な日本人を再認識出来ました。原爆は広島と長崎に投下されました。現在になって戦争の真実を語り始める方がいらっしゃるそうですね。年老いて、やはり語らなければならない気持ちになられたのでしょう。戦争の悲惨さと平和を訴える活動は、戦争を知らない日本の若者たちだけに伝えるだけでは戦争はなくならないと思います。世界のたくさんの人々にもっと伝え、理解してもらう事が重要である気がします。
(原口佳子)