三月三日は桃の節句。立春過ぎから二月の中旬にかけて飾り、三月三日を楽しみに待つのです。鹿児島の我が家では旧暦によるもので、1ヵ月遅れで飾っていました。そして童謡『うれしいひなまつり』の歌を口ずさむ度に思い出すのが7年前に他界した私の父です。
私は3人姉妹の末っ子。幼い頃、毎年ひな人形を飾りつけしてくれる父の横にちょこんと座り、その一部始終をみている私。とても心地よい思い出です。そして四月三日になると母に着物を着せてもらい「お花をあげましょ桃の花~♪♪」と、3人で適当な振り付けで踊っていたものです。その時の父と母の優しい笑顔は今でも憶えています。今から何十年前の事でしょうか。この時期になると懐かしく思い出します。
父は鉄道員で保線区の仕事をしていました。線路の保守管理を主に行うのが「保線区」です。住まいも鉄道官舎と言って駅などの鉄道関連施設に隣接しており、職員住居用の家でした。目の前をいつも蒸気機関車やディーゼル機関車が通り、私たち家族の交通の足は列車でした。
保線区の責任者であった父はまじめで責任感も強く、台風が襲ってくると真っ先に現場にかけつけたそうです。長女が産まれてまもない頃‘ルース台風’と呼ばれる大変な台風が来た時も、父は線路が気になるものですから家族を残して仕事に出かけ、母は仕方なく一人で胸まで水に浸かりながら赤ん坊を抱えて非難したそうです。
定年退職した父はその後一生懸命勉強をし、‘学校の先生になる!’という念願の夢を果たし、私立高校で土木科を受け持ち教えていました。わからない点も気長に説明し勉強意欲を持たせる教育は生徒さんからも慕われていたようです。そういう姿を小さい頃から見て育った父を母も私たち娘も皆尊敬しています。
大好きな父が亡くなってから母を喜ばせる私たちからのプレゼントは列車での旅です。父や母の生まれ故郷、また母が再度行きたいところを聞き、JR九州の観光列車を利用して温泉宿に連れて行くのです。
列車の旅を喜んでくれる母も、夫(父)を思い出しながら心で会話をしているかもしれません。
(原口佳子)